【第2回前編】クールスプリングス代表取締役・三枝幸夫
- 対談連載『リーダーのアタマのナカ』
目次
失敗はラーニング。「100億円のコストオーバー事件」もノウハウに転換し、日本でも初期のCDOに
オーツー・パートナーズの代表取締役社長・松本晋一が日本の製造業を元気にしたいという志を持つ各界のキーマンにインタビューする対談連載『リーダーのアタマのナカ』。今回ご紹介するのは、クールスプリングス株式会社、代表の三枝幸夫さん。ブリヂストン、出光興産でCDOを務められた三枝さん、現在はDX支援、賃貸不動産、飲食店などの事業を営んでいます。
会社や肩書に頼らず、「個」で動ける人間になる
松本:私が初めて三枝さんにお会いしたのは、15年前くらいですね。当時は、ブリヂストンの本部長という雲の上のポジションでいらっしゃったのに、それをまったく感じさせず、フランクに社員さんとお話しする姿が印象的でした。新卒でブリヂストンに入社を希望された理由をお聞かせください。
三枝:学生のころからオートバイや車が好きだったので、タイヤの開発やモータースポーツの仕事をしたくてブリヂストンを希望しました。ところが入社してみると、「電子工学部出身なのだから、コンピューターの仕事をしてくれ」と言われて。希望とはまったく関係ない、工場設備の制御まわりの仕事を任されてしまったんですよ。最初は正直恨めしく思いましたけど、今になってみると、それで本当に良かったと思います。
松本:なぜ、良かったと思われたのですか?
三枝:工場の設備という生産側の仕事をしていたからこそ、海外に行くチャンスをいただき、会社の経営戦略にも関われるようになったからです。タイヤ開発やモータースポーツの分野に進んでいたら、そうはいかなかったでしょう。世界のあちこちで仕事をすることで、その国の状況や、ビジネス・文化・商習慣などを知り、視野を広げることができました。
松本:三枝さんは、エンジニアとして長く活躍されて、今でも自らものづくりをされていますよね。三枝さんを見ていると、指示や依頼をする前に、まずは自分が作れるようになることを大切にしている気がしています。
三枝:そうですね。やはり、ある程度は自分で体感して、感覚的に理解してからでないと、人にお願いするとしても、気持ちが入りにくいのです。だから、興味を持っていろいろやってみることは常に意識していますね。今は生成AIに興味があって、プライベートでチャットGPTを使って楽しんでいます。この前は、友人の結婚式のスピーチ文をつくるのに使いましたが、5分の1くらいの時間でできあがりましたよ。
松本:やっぱり三枝さんは、どんな立場になっても自ら行動して、手を動かしながら、いろいろ挑戦し続けているのですね。
三枝:私は長く会社員をやってきましたけど、昔から、「会社員ではなく“個”でいろいろできるようになっておかないとまずい」ということは、常に考えていました。よく、定年退職すると、人とのつながりがなくなって、孤独になってしまう、という話も聞きますよね。「そうはなりたくない」と思ったことも、起業を考えた理由の一つでした。また、大企業でつくってもらったインフラに乗っかったまま進んでいたら、それがなくなったときに生きていけなくなってしまうという焦りもありました。起業してもう10年になりますが、最初のうちは、銀行口座の開設一つにも苦労しましたよ。
松本:たしかに、初対面では、「〇〇社の××です」と自己紹介しがちですけど、その「〇〇社」という所属がないと、自分のことをどう説明していいか分からなくなってしまう人は、少なくないですよね。
三枝:アメリカだと、名刺や手紙の書き出しでは、まず自分の名前から書くんですよね。それから会社名、住所、という感じで続く。組織でなく、個を大切にしている文化であることが分かります。
松本:そういうことも、アメリカに行かれてから気が付かれたのでしょうか?
実力のある集団をうまく束ね、組織として成果を出す
三枝:はい。アメリカには6年ぐらい行かせてもらいましたが、そのときの経験は宝物です。グローバルな仕事のやり方や考え方など、すごく勉強になりました。
松本:日本での仕事と、アメリカでの仕事と、何が一番違いましたか?
三枝:今は日本でも「ジョブ型雇用」が話題になっていますが、アメリカはもともとジョブ型が浸透しています。個人個人が専門性のあるスキルを持っていて、「私の仕事はこれ」というものが決まっているんですよね。とはいえ、経営側としては会社の成長に向けて、ダイナミックにいろいろな事業にチャレンジしていかなければなりません。マネージャーとしてアメリカに赴任した私は、当たり前のように「来月からはこれをやってください」と従業員に伝えました。すると、「いや、今期の私の仕事は、これとこれだからやりません。ジョブディスクリプション(職務記述書)に書いてあるでしょう?」って言われてしまって。最初は、「ええっ、なにそれ!?」と、非常に戸惑いました(笑)。
松本:アメリカでは、新しい分野でスキルを身につける、リスキリングのような考え方はないのですか?
三枝:いや、もちろんありますよ。ただ、契約社会の色が濃く、自分がやるべき仕事の範囲を会社側としっかり握ってある。評価はその達成度で決まるので、それ以外のことはやらないし、できたことは大げさに伝える(笑)。アメリカで生きるためにはきちんと自己主張をすることが必要だし、幼いころからそうやって育ってきている、ということを実感しました。
しかし、そうなると日本型のマネジメントは通用しません。新しい仕事を依頼するには、それなりのコミュニケーションや取り交わしが必要です。「これをやってもらいたいので、こっちはやらなくていい」とか「追加でやってもらう分は、きちんと評価して上乗せするよ」などと握りながら、新しい分野にチャレンジしていくことが、マネージャーとしての仕事になりました。
松本:たしかに、日本は仕事の役割があいまいで、みんなで話し合って決めるすり合わせ文化が浸透していますよね。だから、組織と組織の間の調整の上手い人が上のポジションにいく。一方、欧米では縦割りの傾向があって、役割分担が明確なんですね。三枝さんは、組織のマネジメントとしてどちらが良いと思われますか?
三枝:アメリカも、昔の契約社会のままというわけではなく、フレキシブルにどんどん変わりつつあります。たとえば、必要とあればクロスファンクショナルチーム(*)をつくり、組織と組織の隙間を埋めていくことも仕組み化されている。しかし、日本のチーム体制と違うのは、集められるのが専門性の高いメンバーであり、それぞれのファンクション(機能・役割)が明確であることです。そして、組織の方をチームに合わせてダイナミックに変えていく。これが新しいグローバル型です。そして、マネージャーには、実力のある個の集団をうまく束ねて、組織全体で成果を出すことが求められます。チームワークを大事にしながら、フレキシブルにやれる日本型にもすごくいいところがありますが、今後グローバルで勝負していくためには、日本も変わっていくべきだと思っています。
*複数の部門やポジションから、さまざまな経験やスキルを持つメンバーを集めたチーム
現場の声を聞きくことで、問題の本質を見極める
松本:三枝さんが書かれた半自叙伝ともいえる新著『店長はCDO」には、アメリカの拠点で労働協約を変えてしまったエピソードがありましたよね。あれは、すごく面白かったですね。
三枝:2003年くらいの話ですね。アメリカに、非常に生産性の悪い工場があったので、その立て直しを命じられて、初めてアメリカに赴任することになりました。最初は「簡単な仕事だな」と思っていたんです。「日本の工場に比べて人の配置が良くないし、機械の動きも遅い。そこを改善すれば、生産スピードはすぐ上がるだろう」と。でも、いざ現場に行って話を聞くと、問題の本質はそこではありませんでした。実は、本社と労働組合の間で労働協約が結ばれていて、従業員が一日に作るタイヤの本数が決まっていたんです。だから、上限に達すると、「今日の仕事は終わり」って、みんな帰ってしまうんですね。
契約国家アメリカと言っても、生産本数を決めるなんてどうかしています。契約国家であると同時に、競争主義社会じゃなかったのか……。
松本:一日の上限が決まっていたら、増産できないわけですから、生産性を上げるのは無理ですよね。
三枝:そうです。そのルールを変えない限り、いくら我々エンジニア部門が頑張っても意味がない。「なんとかしなきゃ」と焦りましたが、現場のメンバーに訴えても状況は変わりません。そこで、私は製造の労務部門担当に出向いて直接話をすることにしました。
松本:ぜんぜん違うセクションですよね。
三枝:はい。最初は、向こうもキョトンとしていました。「生産部門のヤツが何しに来たんだ」って。
松本:しかもマネージャーですからね。
三枝:私は、日本の親企業から命を受けてきている、と宣言しました。そして、「労働協約を変えて、生産性を上げたい」と伝えたんです。労働協定の改定は三年おき。その内容を変えるのは大ごとでした。協約を変えるには、労務部門に主体的に動いてもらわなければならないので、必死に説得しました。工場そのものの存続が危ぶまれていたので、従業員側にも相当の危機感はあったはずです。「同じ機械を使っている日本の工場では一日これだけ生産できている。アメリカ人が負けるわけないだろう!」とか言いながら……(笑)。何度も交渉を重ね、交渉は紛糾しました。そして紆余曲折ありましたが、協約を見直すタイミングで、無事、生産本数の上限を撤廃することができました。
松本:労務に乗りこんで労働協約を変えた日本人は、三枝さんが初めてなんじゃないですか?
三枝:そうかもしれませんね。でも、もちろん私一人ではなく、組織全体の力です。社内全体に「なんとかしなきゃ」という空気が流れていたので、そのトリガーとしての役割は果たせたと思います。その後、生産性は飛躍的に上がりました。契約通りの本数、それ以上の本数がきちんと生産されるようになりました。ただ、私の専門であるエンジニアリングの出番はあまりなく……(笑)。一番大きく効果が出たのは、協約の改定だったということですね。
松本:でも、そのおかげで無くなる寸前だった工場が、生き残ったわけですから。今の話のポイントは、三枝さんがしっかり現場に足を運んで、「これは労働協約の問題だ」という本質を短期間で見抜いたことにあると思います。三枝さんは、本質を見抜く直観力がありますよね。
三枝:直観力があるかは分かりませんが、私は人に話を聞くことが好きなんです。あのときも、生産部門のメンバーが「もっとパフォーマンスを挙げろ」とはっぱをかけられて困っていたので、彼らから直接話を聞くことにしました。すると、彼らも「労働協約がなければいいのに」と、思っていたことが分かったんですね。現場の話を聞くことで、問題の本質が見えることは少なくありません。
痛みと共に大きな学びを得た、アメリカでの一大プロジェクト
松本:三枝さんの本には、社運を賭けた一大プロジェクトで大きな損失を出し、役員に怒られたという失敗談も書かれていましたね。
三枝:そうですね。ただ、このごろは「失敗」とは言わないようにしています。あれは大きな学びであり、アクティブラーニングでもありました。当時、世の中はリーマンショックから回復しつつあり、世界中でタイヤの需要が伸びていました。その後押しもあって、高度な技術が求められる最新鋭のタイヤ生産工場を、初めてアメリカにつくることになったんです。会社からも大きな期待が寄せられていた建設プロジェクトで、私はその責任者を任されました。最初は、アメリカ側と情報を共有しながら進めるつもりでしたが、アメリカの担当者が「自分たちでできるから任せてくれ」と譲らず、アメリカ側が主体で進めることになりました。
ところが、あるときそのアメリカの担当者からホットラインが入りまして。それだけでもう、嫌な予感がしましたね。「ちょっと問題が起きている」というので話を聞くと、大変なことになっていました。工事がとんでもなく遅れていて、納期は確実に数カ月は延びると。さらに、予算もかなりオーバーしそうだというんです。
松本:その第一報を受けて、日本からすぐアメリカへ発ったんですよね。
三枝:はい。そこから数時間後には飛行機に飛び乗って、アメリカに駆け付けました。担当者に会って話を聞くと、納期遅れはもちろん、100億円以上予算をオーバーしそうだというので、青ざめまして。とりあえず、新たな発注はすべてストップし、できる限り設計をやり直し、スケジュールを調整しました。これは大きな問題となり、第三者調査委員会も立ち上がりました。
本社に報告すると、「100億円もオーバーしてどうやって取り返すんだ!」と、役員から叱責されました。立ったまま怒られるのは、小学生以来の経験です(笑)。そういう中で力になってくれたのは、社外取締役の面々でした。この問題が起きた原因を客観的に判断し、次はこういうことを起こさない組織づくりや、外注するときの契約方法の見直しなど、前向きな助言をくれました。結果、アメリカ側の非が大きいということにはなりましたが、私も責任者として、ボーナス大幅カットや昇給面などの責任を取らされました。
松本:そういう苦難も乗り越えて、ブリヂストンで最初のCDOになられたのですね。
三枝:そうですね。こうした現場での苦労や経験は、CDOになってからも大いに役立ちました。特に学びが大きかったのは、「小さく速く回す」ことの重要性です。大きなプロジェクトになるほど、進行中のミス一つで取り返しがつかない事態になりやすいので、小さく回し、素早く変化に対応していくことが大事だと、身をもって知りました。こうした学びは、次の仕事に活かすノウハウとして社内にも蓄積されています。私はこの事件をポジティブに捉え、次の仕事に活かしていくことで、数年後、CDOとして新たな活躍の場を与えてもらうことができました。そういう意味でも、「失敗」は大きな学びのチャンスであると、自信を持って伝えたいですね。
(後半へ続く)