【第5回前編】アスエネ代表取締役CEO・西和田浩平
- 対談連載『リーダーのアタマのナカ』
目次
音楽を手放し、示された新たな道しるべ。
オーツー・パートナーズの代表取締役社長 松本晋一が日本の製造業をより元気にする手がかりを探し、様々な領域で変革を起こし続ける各界のキーマンにインタビューする対談連載『リーダーのアタマのナカ』。今回ご紹介するのは、アスエネ株式会社Co-Founder & 代表取締役CEOの西和田 浩平氏。CO2排出量見える化・削減・報告を「見える化」するクラウドサービス「アスエネ」を展開し、地球規模の課題解決に挑み続ける西和田氏の熱意は、どう育まれていったのか。少年時代のストーリーから紐解きます。
アメリカで培われた「自分で決めたことをやり抜く力」
松本:西和田さんは、ミュージシャンを目指していたんですか?
西和田:そうですね。大学2年生になるまでは、本気でプロを目指していました。
松本:すごいですね。
西和田:いえ、結局は挫折していますから(笑)。
松本:その辺りの経緯も後ほど伺いたいと思います。まず、少年時代をアメリカで過ごされていますね。アメリカに行かれたのは、お父様のお仕事の関係ですか?
西和田:そうです。中学2年生のときに父の転勤が決まりまして。当初は単身赴任の予定でしたが、私のほうから「僕も行きたい」と頼み込んで、結局、家族全員で行くことになりました。
松本:中学生で、自らアメリカに行きたいと希望されたんですか?
西和田:はい。その頃は、学校生活があまり満足していなかったんですね。頑張って、受験して入った中学校でしたが、サッカー部で一定活躍しながらもなんとなく毎日に手ごたえを感じられなくて。ずっと「何かもっと面白いことはないかな」と、興味を持てることを探していました。そんなタイミングで、父がアメリカに行くというので、これはチャンスだと。自分の世界を広げられるかもしれない、という期待を胸にアメリカに渡りました。
松本:アメリカでは、公立の中学校に入学されたのですか?
西和田:そうです。ニューヨークの隣のニュージャージー州にあるパブリックスクールに転入しました。特に荒れていることもなく、落ち着いた雰囲気の学校でしたが、当初はぜんぜんなじめなかったんですよ。
松本:えっ、そうなんですか?
西和田:はい。というのも、英語がまったくできなかったからです。中2の6月でアメリカに来てしまったので、英語の勉強をしていた期間は、ほぼ中1の1年間だけ。だからクラスメイトと会話ができないんですね。転入生の私を見て、ヒソヒソ話をしている人もいたけれど、それが悪口なのかさえ分からない。すごくつらかったです。
松本:ああ、なるほど。
西和田:毎日、家族に訴えていました。「日本に帰らせてくれ」って(笑)。でも、2カ月ほど経つと、だんだん理解するんです。「これはもう帰れないんだな」って。それならば、ここで生きていくしかありません。そもそもアメリカに行きたいと希望したのは自分ですし、腹をくくって、適応モードに切り替えました。
自分の強みを活かして、居場所をつくる
松本:そうだったんですね。具体的には、どうやってアメリカの生活に適応していったのでしょうか?
西和田:英語の勉強に本腰を入れたのはもちろんですが、それ以外に、私が持っていた2つの武器を徹底的に活用しました。
松本:2つの武器ですか?
西和田:はい。それは「数学と体育」でした。アメリカは、中学生でも、電卓を使って計算をするのが当たり前でした。なので50問ほどのかけ算問題を、私が3分くらいで解いてしまうと、教室がざわつきました。「あの日本人、なんかすごいぞ」って。それで、「数学が得意な自分」には価値があることに気づいたんですね。それをきっかけに、クラスメイトに数学を教えるようになって、徐々に周囲に溶け込めるようになりました。
松本:なるほど。新しい環境で生き残っていくために、自分の強みを見極めて、利用したんですね。
西和田:ええ。そしてもう一つの武器が、体育です。幼稚園からサッカーを続けていた私は、体を動かすことも得意でした。そこで、体育の授業には特に力を入れました。マイル走を誰も早く走るなど活躍すると、まわりも認めてくれるようになります。得意なサッカーも頑張って、地区選抜チームにも選ばれました。「ここで活躍しなければ、自分の居場所はつくれない」と、必死でしたね。そうやって少しずつ自信をつけて、自分の個性も出せるようになっていきました。
松本:なるほど。中2でアメリカに渡り、しんどい思いもしたけれど、「自分で決めたことに対して責任を持つ」という経験をされた。そして自分の強みを最大限に活用したことで、まわりが認めてくれた のですね。これらの経験が、今の西和田さんの決断力やリーダシップのもとになっているのでしょうね。
西和田:そうかもしれません。また当時、私がいたクラスは、ESL(English as a Second Language)といって、英語を第二外国語とするクラスだったので、さまざまな国籍の生徒たちが在籍していました。
あるとき先生が「これ、分かる人」と、質問したんですね。そうしたら、私以外のクラス全員が、一斉に手を挙げたんです。驚きました。そしてさらに衝撃だったのは、いざ当てられて、分からなければ、堂々と「分かりません」と言っていたこと(笑)。これは、強烈なカルチャーショックでしたね。答えが分かるかどうかはともかく、まずは手を挙げて、「自分」を主張する。すごいなって思いましたよ。
松本:それは、日本の子どもたちにはない感覚ですね。
西和田:はい。アメリカには、国も、文化も、宗教もまったく違う人たちが集まっています。こういう社会では、「自分の意見を明確にして、はっきり伝えないといけないんだ」と、理解しました。
大好きな音楽が、次に進むべき道を開いてくれた
松本:音楽をやり始めたのは、いつからですか?
西和田:中学生からです。父のアメリカ駐在もそろそろ終わりに差し掛かっていましたが、私はそのままアメリカに残るため、高校は学生寮のある慶應義塾ニューヨーク学院に入りました。そこで、バンドを結成して、高校生活は音楽とサッカーの二刀流に集中して明け暮れるようになりました。
松本:バンドでは、何を担当していたのですか?
西和田:私は基本的にはギターで、そのあと徐々に曲もつくりはじめました。
松本:作曲もしていたんですね!
西和田:はい。高校卒業後は日本に帰国しましたが、音楽はずっと続けていました。内部進学で慶應義塾大学の商学部に入りましたが、当時は勉強には興味がなかった。本気で「音楽の道で食べていこう」と思っていましたから。週1回だけ大学に行く以外は、ずっとバンド活動をしていました。
松本:結構、いいところまで行ったんですか?
西和田:そうですね、かなり音楽活動にのめり込んでいましたが、大学2年のときに、きっぱりとやめることにしました。
松本:それは、なぜですか?
西和田:その時点で、プロになるのは難しいと判断したからです。私は、「大学2年までに音楽の道でこれを達成する」と目標を決めて、それを実現するための具体的な道筋を決めていました。
松本:バックキャスト思考ですね。
西和田:そうですね。当時からその思考法を意識していました。でも、大学2年生の時点で定めていたマイルスストーンを達成できなかった。私は本気でプロになろうとしていたけれど、バンド内にはそこまでの熱意を持てないメンバーもいて。私も未熟でしたから、バンド内のモチベーションを上げることも、メンバー間の温度差を埋めることもできず…。挫折経験と学びを得て、自分の周囲の巻き込み力が不十分だった反省し、音楽の道はあきらめることにしました。
そして、「これから何を目指して生きていこう」と、途方にくれているときに、新たな目標を見つけるきっかけになったのが、Bank Band(バンク・バンド)でした。Mr.Childrenの櫻井和寿や坂本龍一らが結成したバンドです。彼らの目的は、地球環境保全を目指すプロジェクトap bankの活動を後押しすることでした。Bank BandのライブやCD売上は、環境保全活動を行う団体や企業への投融資に充てられていました。
松本:昔のバンド・エイド(Band Aid)とか、U.S.A.フォーアフリカみたいな感じでしょうか?
西和田:そうですね。音楽にかかわることだったので、その活動にもすごく興味がわきました。それまで私は、ビジネス自体に関心がなく、「投資」という言葉からは、“マネーゲーム”や“儲け話”などが連想されて、あまり良い印象がなかった。でも、世の中には社会課題の解決を目的とした「投融資」などの事業もあるということをそこで初めて知りました。そして、音楽のビジネスの力で社会を変えようとしている彼らの取り組みに心を打たれた私は、「ビジネスでなら、私も世界を変えられるかもしれない」と思うようになりました。
さっそく、今、世の中にどんな社会課題があるのかを調べ始めました。特に環境問題を中心に見ていきましたね。そこでたどり着いたキーワードが「再生可能エネルギー」でした。ちょうど欧州で太陽光や風力発電などが推進されてきていたタイミングです。当時はまだ火力発電のシェアが圧倒的でしたが、その資源は有限であるし、地球温暖化の大きな原因の一つになっている。いずれは、再生可能エネルギーを主力にしなければならないことを理解しました。そして、これが私の取り組むべき課題だと思いました。
私は、総合商社への就職を希望しました。世界でビジネスをやる力をつけられる総合商社は、当時から欧州の再生エネルギーに投資をはじめていました。それで「再生可能エネルギーをやらせてほしい」という希望のもとで入社試験を受け、三井物産から内定をもらいました。
松本:なるほど。西和田さんの人生を決定づけることになった再生可能エネルギーとの出会いは、音楽が導いてくれたものだったのですね。少年時代から大学までの西和田さんの生き方が、今の仕事につながっていることが、はっきり分かりました。 西和田:そうですね。つながっていますね。
起業への扉を開いた、ブラジルでの出会い
西和田:新卒で三井物産に入社して数年が経つと、念願の再エネ事業への投資やM&Aなどの仕事を任されるようになりました。中でも、私にとって大きなターニングポイントになったのは、ブラジルの分散型エネルギーサービス企業、エコジェン社への出向でした。
エコジェン社は、省エネや再エネ事業に力を入れているスタートアップで、三井物産が90%の株を持っていました。200名ほどの会社でしたが、社長と副社長がとにかくパワフルで、圧倒されました。二人とも、意思決定のスピードが速く、実行力に富んでいます。社長のネルソン氏は経営者として圧倒的なカリスマ性をもっており、重枝さんは30代前半でエコジェン社のM&Aを決めて副社長として出向し、約5年で黒字転換させた超人でした。また、三井物産の先輩である副社長の重枝氏は、こなす仕事のボリュームと質とスピードが桁違い。「なぜこんなにたくさんの仕事を実行できるのだろうか…?」と、驚かされてばかりでした。エネルギッシュで魅力にあふれた二人に惹かれて、優秀な人材もどんどん集まってきます。そんな彼らを私のロールモデルとして、「私も30代前半までに起業して、スピード感を持って想いのある領域で経営にチャレンジしたい」と考えるようになりました。
(後編へつづく)